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身近な暮しを書きとめるノートです。
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精神病院をなくしたイタリア 日本縦断講演会まで

イタリア精神病院閉鎖物語ツアーが終った。

1年がかりのボランティアだった。無償の愛? 悪い冗談だ…(笑)。

きっかけは、昨年今ごろのマリアグラッツィアからのメールだった。彼女は、「(大熊一夫)本の出版記念または、販売促進をかねて、バザーリア財団から、私とトッマーゾなどが訪日しセミナーをする希望がある。その時のイタリアと日本の渡航費は財団が持ちます」というようなことを言ってきた。

「バザーリア賞の賞金の残金を口座に振り込みました」というお知らせとほぼ同時だった。大熊は第1回バザーリア賞を授賞した。その賞金の半額は2008年夏のヴェネツィアで小切手で受け取っていたが、半額は、岩波書店から本が発行された後となっていた。

2009年秋のマリアグラッツィアからの手紙から1年。今回の日本縦断講演会となって花開くまではいろんなことがあった。イタリアとやりとりした膨大なメールの数と内容が教えてくれる。メールを見ながらポイントを思い出してみる。

まずは、私たち日本の側が、大熊一夫企画でトリエステの最新事情を知る旅をしよう、となった。さっそく2009年11月から計画を練った。実際に練ったのは大熊一夫で、私はそれを英語にして先方に伝え、先方の意向を日本語にして大熊に伝えるという橋渡しをつづけた。そのボランティア日英翻訳業の合間に、マリアグラッツィアの友人としてのひと言も添えるなどした。

そうして2010年4月、この計画が実行に移された。この準備には、あれこれ半年かかった。そして私も30万円という大枚を支払って「精神病院なしのトリエステを徹底解剖するツアー」に加わった。

視察団は、大熊一夫、伊藤順一郎、門屋充郎、大石真弥、大石賢二郎、恒松由記子、久永文恵、田島光浩、半田卓穂の皆さんに、三井マリ子。堂本暁子前千葉県知事は体調不良のため直前にキャンセルとなった。

4月、イタリア訪問。ローマに到着し、その後、視察先であるトリエステに移動した。連合いと私は、ローマ滞在の間、ジルド・マリアグラッツィア私邸に宿泊した。おかげで、秋の訪日講演についてじっくり話し合うことができた。ライテレビの映画「昔、昔、キチガイの町があったとさ・・・」の上映も同時にしたい、そうなるとライテレビの制作者も同行することになるーーなどという無理難題もついていた。その後、理由をそえて丁寧に断ったものの、この件については双方の合意やそれへの手順が先延ばしになった。

トリエステでは一つのホテルにずっと宿泊し、視察にあけくれた。最終日、イタリア訪問団10人は、ホテルの私たちの部屋に集まって、日本の精神保健問題と今後について話し合った。私は、映画翻訳を完成し上映を企画したい、と言った。話し合いの途中、部屋のテレビから、アイスランド噴火が勃発し、飛行機は飛ばないというとんでもないニュースがはいった。

その後、確実な日程を決めるまでが大変だった。魔の5月。彼女のスケジュールの都合、こちらの会場の都合などがあわない上、こちらのメールを読んでいないとか、文字化けで読めないとか、技術的なトラブルにも見舞われた。何度も「リマインダー」を出した。

会場をどこにするかによって、日程も異なってきた。当初、東京会場は東大を予定していた。私は、大熊の指示に従って日本の精神科医養成の最高学府であることを強調して、東大の空き室状況に日程をあわせてもらうような手紙を書くことになった。その結果、マリアグラッツアも東大でやることを、とても喜んだ。だが、なんだか話がすんなりとは決まらなかった。ちょうど、この頃は、私が秋田の特別養護老人ホームにお世話になっている母親を見舞ったときだった。母は日に日に弱っていた。私を「母さん」と呼ぶ回数が増えていた。特養ではパソコン使えなかったため、母親の眠っている時をねらって、何度も徒歩15分のネットカフェに走った。

その1カ月後、母親が亡くなってしまった・・・。

そして夏、前から決めていた私のノルウェー調査取材研修の時期がやってきた。私はノルウェーに飛んだ。ノルウェー滞在中も、日本の司令塔大熊一夫とほぼ毎日スカイプで交信した。マリアグラッツィアがそれとなく言ってくる、ライテレビの件については、講演会と同時にはできないこと、しかし近い将来かならず実行委員会でやる用意ががることなどを英語で伝えた。

私が日本に帰国したころには、日本での開催団体、開催場所がほぼ決まっていた。東京の会場は東大ではなく、北区の「北とぴあ」という会場へと変更になった。

イタリアから来日する講師は3人と決まったが、しばらくして1人追加して4人にしてほしい、と言ってきた。講演時間は限られている。通訳も入れて、どうやって4人に講演をしてもらえるか。頭をかかえた。その後、結局、その4人目の講師がキャンセルとなり、はじめの3人に戻った。しかしちょっとした時差で、すでに「トリエステ日本縦断精神保健講演会」チラシは、講師4人で印刷し配布してしまっていた。

こうした変更は、国際会議にはつきものではある。しかし、今回のイタリア一行来日は、何度も変更があり、来日当日まで悩まされることになった。

来日が1カ月後にせまっていた。完成した英語版日程表を送った後のことだった。成田着が15日ではなく1日早まり14日に到着、と言ってきた。理由は、安価なフライトは14日着しかなかったというものだった。東京の宿泊先は国際文化会館に予約していたが、15日着を14日着に予約変更が必要だった。宿泊先を途中で変えるのは、疲労が増すし後にひびく。私は、国際文化会館に、前泊が可能かを祈る思いで電話した。幸い空いていた。しかしツインはなく、トッマーゾとパオラもシングル泊となってしまった。

11月にはいり、あと1週間という時だった。同行者2人を追加してほしい、日本での電車やホテルを予約してほしいという手紙が講師ジゼッラから直接私に舞い込んだ。これまでイタリア側の情報は、すべて財団経由だったので、変だな思い、財団にジゼッラの要望が書いてあるメールを転送し、確認をした。なによりイタリア日本の国際フライトがとれたのか、確認しなくてはならないと考えた。返事は、すでにイタリアから日本までの国際便は6人でとれている、という。連絡ミスのお詫びもいっしょだった。

一行は4人から6人に膨れ上がった。直前の来日人数変更に、さすがに背中に冷や汗が走った。しかし、できる範囲で変更事務を急がなくてはならない。同時に、イタリアの相手には、こちらができない変更事務については、その事情をただちに伝えて、イタリアで対処してもらわなくてはならない。目の回る日々が続いた。

これで終わり? ではなかった。一行が日本に着く前々日のことだった。サルディニアからの人たちとローマからの人たちは、違うフライトで日本に到着するという緊急連絡が、秘書からはいった。「心配しないでほしい。早く到着する人たちは、後に到着する人たちに加わる。マリ子は、既報の時間に最初に伝えたフライトの到着ロビーで待っていてほしい」というものだった。

早起きして成田空港に到着した。アリタリアの到着ロビーで待つこと1時間余り。座る所がないので立ちっぱなしだから、よけい長く感じた。もう来ないのでは、と思えたほどだった。

結局は、抱き合って、再会を祝うことができたので、めでたしめでたし、だった。このトラブルの理由は、私が秘書から最終的に聞かされたフライトナンバーと、実際のフライトナンバーが違っていて、早く到着していたため、別のロビーで待っていたからだった。しかもローマで買ってきたという新品の携帯電話が、日本では使えない代物だった。「日本に行くため、と言って、買ったのに」と、マリアグラッツィアはブツブツこぼすこと、こぼすこと。

成田空港から6人を、六本木の国際文化会館までアシストし、無事、チェックインさせたのは、昼を過ぎていた(出迎えサービス会社に仕事として依頼したほうがよかったと思えた・・・)。

来日してからは、さらなる怒涛の1週間だった。私は一行の成田空港着からはじまって、全行程をともにした。こういうをアテンドという。1時間1万円ほどが相場のハードな仕事だ。今回はもちろんボランティア。

日程にそって動いてもらえるよう、頻繁に双方とコミュニケーションをとりながら、動く。強行スケジュールのため、行く先々で、ついつい出てくる愚痴を受け止めつつ、なぜこの時間に集まるのだという疑問や怒りに対処しつつ、日伊の間に立つ。とりわけ最終日の内閣府会議は、私が日本側から伝えられていたことと、実態に相違があり、非常に困った。しかし、日本側には日本側の都合もある。その間にはいってのバッファー的役回りだった。

食事の好き嫌いや時間なども、考慮しなければならないことが多かった。そのほか、日々、いろいろ・・・。初めて来日したイタリア人には、当然のことだったとは思う。たとえば、風邪をひいた、過労だ、ヘアドライヤーがない、ATMで現金が引き出せない、コーラを飲みたいのにコーラがない、洋服のコーディネイトについてこれでいいか、自分たちの名前とタイトルが書かれた垂れ幕をかならずもらってほしい、出されたお茶菓子を持参していいか、食べられないが食べなくても失礼ではないか、約束の時間にパオラが来ない、なぜこんなに待たせるのだ、「あの日本語は何と書いているのか」などなど・・・。今は、笑って思い出しているけれど。

国際会議の企画や運営を何年もしてきたが、いつも助っ人的スタッフと一緒だった。しかし今回は、司令塔大熊はいるものの、イタリア側との交渉・交信作業は私だた1人。1週間の講演旅行中も、講演会以外の会話は、イタリア語通訳がいないため、アテンドの仕事となる。英語のできるマリアグラッツィアが他イタリア人の意向を聞いて、私に伝え、私は、大熊や他日本人にそれを伝えて、逆に彼らの意向を把握して英語にして、イタリア側に伝えるといった具合である。

終わった。素晴らしい人たちとめぐりあえるチャンスもあった。とくに、京都で親しくお話を聞く機会のあった精神科医・上野光歩(うえの みつほ)さんには、人間愛の深さを感じた。

とにかく、この日本国内4か所での講演が、今後の日本の精神保健改革の前進に役だってくれれば、こんな私の苦労などどこかに吹き飛ぶ。
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by lykkelig | 2010-12-01 12:50 | 社会問題
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