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身近な暮しを書きとめるノートです。
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マリー・デュプレシ

マリー・デュプレシ(1824-1847)は、ヴェルディのオペラ「椿姫 La Traviata 」のモデルになった女性だ。デュマの「椿を持つ女」(1848)の主人公でもある。パリで、肺結核のため23歳で亡くなった実在の女性だ。

ジョアンナ・リチャードソンJoanna Richardsonによると、彼女は・・・・

サン・ジェルマン・ド・クレルフィユ村生まれ。父は、村の牧師がある売春婦に生ませた男だ。鋳掛け屋。彼の二人目の女の子で、本名はアルフォンシーヌ。

父親は娘より息子がほしかった。その後、母親を執拗に虐待するようになる。それが原因で母親は村を出て、パリに逃亡。

しかし、母はアルフォンシーヌが8歳のとき死亡。母のいとこに引き取られるが、12歳のころからパリの街を徘徊するようになり、よくない友達を作り始めた。その後、母のいとこから父親のもとに送り返される。父親は、彼女を洗濯屋の見習いに出す。

父親は、その後、アルフォンシーヌを70代の独身男に売りつけた。しばらくして村にもどったアルフォンシーヌだが、洗濯屋の人たちはいっさいかかわりを持とうとしなかった。そこで、彼女は月60フランで旅館の女中の仕事につく。しばらくして、また父親に発見され、今度は傘工場に入れられる。その後、パリの遠い親戚に預けられる。はじめは洗濯屋、後、婦人帽子つくりの下で働く。

1839年、レストラン経営者と知り合い、彼の娼婦となる。彼から豪華な住まいを用意してもらう。その後、貴族ギッシュ・グラモン公爵の娼婦となり、月1万フランに貢がせる。1841年、内務省に務める若い子爵を恋人にする。その冬、ヴェルサイユに引きこもり、息子を産んだ。

1842年、Rue du Mont-Thabor で優雅な生活を送る。11時に起床、朝食、新聞読書、ピアノ練習、着替え、ブローニュの森の散歩、訪問者を迎え、夕食、観劇、Cafe de Paris で食事・ダンス・賭け事・・・これがお気に入りの日課だった。劇場の切符は頼まなくても演出家たちがこぞって送ってよこした。幕間には、女優、男優、著名人が次々に挨拶にやってきた。

1844年か1845年に、Baron de Stackelbergと知り合う。ポーランド貴族の出で、マリーの父親ほどの年齢。Boulevard d la Madeleine に彼女のために家を買った。まるで宮殿か美術館のような豪華さだった。

彼女の美貌と洗練された魅力は、デュマ・フィス、フランツ・リストなど大物もひきつけた。デュマがマリーと知り合ったのは、1844年末。彼が20歳のころで、彼女には年配の恋人Baron de Stackelbergがいた。デュマとは、2ヶ月間のつきあいだったという。

オペラ座での仮面舞踏会で、王室の御用をつとめている銀行家の息子Comte Fdouard de Perregaux と知り合い、彼をとりこにしてしまう。1846年2月21日、マリーは、ロンドンのケンシントン区役所の戸籍課で、ド・ペルゴー伯爵夫人となった。

ところが、伯爵は金詰り状態、贅沢三昧に慣れていたマリーの負債はうなぎのぼりとなった。

1847年1月、肺結核の末期となっていたが、パレ・ロワイヤルへ喜劇の初演に出かける。2月3日、23歳で息を引き取った。

――『椿姫』(音楽之友社、名作オペラブックス2)より引用


秦早穂子著『「椿姫」と娼婦マリ』(読売新聞社、1986)も、おもしろい。パリに住む日本女性が、渾身の取材と調査で、マリー・デュプレシにせまっている。

秦は、あとがきにこう書く。ここに彼女がマリー・デュプレシを選んだ動機が見て取れる。

「実在のマリ・デュプレシは、最後まで、あがきながら、抵抗して、自分の存在できる、正当に存在できる場を、探し求めてやまかったと思う」

「椿の花はにおいがないから、砂糖漬けのぶどうは、味がないから、そして、金持ちの男は心がないから、だから、私は好きなのよ、と、この若い女は言い切った。それはすべて反語でしかなかった。彼女をして、ここまで言わしめた環境、狂気のように金を浪費し、身を滅亡させてゆく状況ーーーおろかしいとだけはいいきれまい。一見、優雅で、安楽な時代であったろうルイ・フィリップの時代ーーーうつし絵のように、それは、はるかかなたから、おぼろに浮かびあがってくるのだが、よくよくのぞいてみると、貧富の差、身分の差、その底にうごめいている男や女たちの姿が、あぶりだされてくる」

小説、オペラ、評論の行間には、アルフォンシーヌの凄惨ともいえる暮らしが見えてくる。

母親を目の前で殴る暴力男は、幼いアルフォンシーヌにどう写ったのだろうか。
無一文だったろう母親と、幼いアルフォンシーヌはどうやってパリに逃れてきたのか。
パリで、母親は日々の食糧を、寝床を、いったいどこでどう見つけたのだろうか。
たった一人の母親を8歳でなくしたアルフォンシーヌ。その悲しみをどうやり過ごしたのだろうか。
洗濯屋の見習いに出された、わずか12,3歳の少女は、その小さな手で何を洗ったのだろうか。
70歳の親戚の男に売られた10代半ばの少女の毎日はいかばかりだったか。
70歳の男から逃れて村に帰った少女を、村人はどう見ただろうか。
その後の女中の生活は・・・そして傘工場の生活は・・・
そして、パリの親戚に追い払われた彼女は・・・

これらは、当時、暴力男が牛耳る極貧の家庭に生まれた、おびただしい数の少女たちの暮らしそのものだ。そして、貧しい国の貧しい家庭に生まれた現代の少女たちの生き様でもある。そう、19世紀パリ、23歳で亡くなった娼婦の一生は、150余年経た今も、普遍性を持つ。
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by lykkelig | 2009-05-09 00:39 | 本、文書
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